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サロンLAPISのニュートラルトーク

ひっそり隠れ家サロン時代から書きためている本音のコラム。 時にじんわり、時にきっぱり。 素で綴る、セラピストのひとりごとです。

   

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幸せの向こう側【プロフィール作り⑧】

結婚をしてから私は、13年間専業主婦をしていた。

働く母を持つ夫は、やはり寂しい気持ちを押し殺して、

子供時代を送っていたと、後に私に告白し、

「できれば、いつでも家庭優先でいて欲しい」と望んでいた。

夫の気持ちが痛いほどわかっていただろう義理の母も、

「私が65歳まで精一杯働くから、それまではあんたが 

家庭をしっかり守ってや。私ができなかった分までも」といい、

母は、美容師業に邁進した。

中学を卒業してから、美容の道ひとすじ。神戸・東京と修行時代を送り、

福井に戻り 26歳で独立する。福井で初のロレアルサロン。

その頃の母はハイカラで、羽のついたつば広の帽子を

かぶっていたらしい。

帽子好きの私を見て、「あんたはあたしの若いころに、そっくりやねぇ」と

笑い、私の誕生日には帽子をよくプレゼントしてくれた。そんな母は、

わたしと誕生日が 一日違い。偶然というか、運命というか、

わたしも次の日には、お母さんに手袋をプレゼントしたりして、

後半の年月には、ほとんどほんとの母娘のように過ごした。

しかし、私たちはその後の運命が わかっていたからこそ、

短い濃密な時間を共有できたのかもしれない。

母の癌が発覚したのは、1996年頃。

幸せの絶頂期。

93年に私に娘が誕生し、翌年には両親の家、夫の生家の敷地内に

私達子世帯の家を建て、順風満帆の日々を送っていた矢先だった。

母はもっと以前から、体調の変化に気づいていたはずだ。

しかし、忙しさに紛れ、ごまかしながら仕事に忙殺されていて、

受診した頃にはもう手の施しようにない状態となっていた。

子宮ガン、ステージ3の後半。手術はもうできないという診断が下された。

しかしまだこの時点では、私たちは現実を受け止めきれず、

治るであろうと、信じきっていたのだ。

その後に母が急激に衰えていく現状を目の当たりにしながら

私達家族は、三年間の壮絶な闘病生活を 母と共に送ることになるのだった。


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