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サロンLAPISのニュートラルトーク

ひっそり隠れ家サロン時代から書きためている本音のコラム。 時にじんわり、時にきっぱり。 素で綴る、セラピストのひとりごとです。

   

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最期の時間【プロフィール作り⑩】


店をたたんだことで、

もう治ることも、美容師として現場に復帰すると言う望みも

事実上絶たれた母は、

それから急速に、衰弱していった。1999年11月頃まではそれでも

売店まで何とか自力で、買い物にも行くことが出来ていたが、

日に日に体力が落ち、同時にガンによる痛みとの 闘いになっていった。

モルヒネの量を増やすことで、意識障害が起こり、

自力では何事もできない寝たきりの状態になるのは

もうそう遠くないことだと、医師からも告げられた。

どのような最期の時を迎えさせてあげられるのか・・・。

私たちは、考え方を容赦なく変えていくしか手立てがなかったのだ。

それでも、まだ私は信じていた。

母が回復することを。

完治することはないにしても、一年の余命が、もう三年になろうとしているのだ

きっと奇跡は起こるに違いない・・・と。

12月に入る頃から、痛みが起こる間隔が ひっきりなしに続くようになり、

母は苦しさにうめき声をあげるようになった。

まだ、会話は出来ている、私の手を強く握り、耐えている。

しかし、その苦悶の表情に、我々家族が耐えられなくなってきていた。

痛みを取り去るためには、モルヒネの投与量を増やすしかない。

苦渋の選択の末、私たちはそれを 了承した。

母は、それから 一日中をぼんやりと、眠って過ごすようになった。

時折、その瞳に 力が宿る時がある。

話しかけると、実にゆっくりと 手を握り返してくる。

しかし、日一日と、その力は弱くなっていき、

最後は 何も反応を返してくれなくなった。

医師に呼ばれ、この一ヶ月を 覚悟するようにと、

2000年の正月を迎えることは、おそらくないだろうという 宣告を

私たちは受ける。そして、完全24時間の付き添いを指示された。

一日置きに、私と夫が 母の病室に 泊まりこむ日々が 始まった。

体中に管が差し込まれ、エネルギー補給は 点滴のみ。

水分も一切、口からはもうとれなくなった。

乾いてひび割れてしまうので、蜂蜜をうすく 唇にぬってあげる。

しかし、水分の与えられない喉は、痰が絡むと命取りになるので、

常に一定の間隔で 管を入れて取り除かなければならない。

これが見ていて、一番辛かった。動けない体のはずなのに、

身をよじって、嫌がるのだ。

看護師さんが「つらいよね。ごめんね。もう少しだからね」と優しく声を

かけてくださるのが、唯一の救い。

そして、ある日私は付き添いを義父と交替するため、夕方病室に出向いた。

すると、母の足首から下が 紫色に変色している。

驚愕で、体が震え、何かが私の中で はじけた。

思わず私は父を罵倒した。

「何してるの!!なんでこんなことになってるの?そばについてて、

何故教えてくれないの?酷すぎるじゃない」

父は、「もう 仕方ないんやと。こうなっていくとしか、言われんかった」と言う。

それでも私は、この怒りを抑えられず、父を責め続けた。

「私たちは、夜も昼もないの。お母さんを一晩中看ているの。小さな変化も

逃さないようにしているの。なのに、昼間看ているお父さんがどうして

こんな状態になるお母さんをほっとくの?信じられない!!」

言い争いになり、その声の大きさで、看護師たちがとんできた。

父はなだめられ、帰宅するよう促され、帰っていく。

私は、感情の嵐が押し寄せるのをもうとめることが出来ずに、

冷静さをなくしていた。今までどんなことがあっても、母の前で泣いてはいけないと

言い聞かせていたのに、もう 耐えられなかった。

嗚咽がもれ、もう我慢が出来ず、泣き崩れてしまった。

その時の看護師二人が、私をそっと病室の外の 反対側の部屋へ

連れ出してくれた。

一人のナースが、私と共にベンチに座り、私の背中を優しくさすり始めた。

子供のようにしゃくりあげる私の背中を 何度も何度も優しくなでて

落ち着くまで、何も語らず、待ち続けてくれたのだ。

そして、静寂が訪れると

おもむろにゆっくりと、話し始めた。

「お母様は、悲しいことですが、もう命のともしびが わずかになっているのです。

それが体に徴候として、出始めているのです。これはもう誰にもどうすることも

出来ないのですよ。受け止められない気持ちも、よくわかります。

お辛いでしょう。けれど、誰のせいでもありません。

自分を責めてはいけませんよ。最期まで、お母様の耳は、ちゃんと 聞こえています。

辛いでしょうけれど、明るく話しかけ続けてください。

ご家族が寄り添ってくださることが、最期の旅立ちの準備になるのですから」

初めて、現実として、「母の死」を受け止めた 瞬間だった。

それからは、さすってもさすっても、母の足は白くならず、

どんどん紫色の範囲が 広がっていく。

それでも、さすり続けると一時、血流が戻るので、

私は暇さえあれば、下から上へ足をずっと マッサージしていた。

トイレに行く時と、食事する時以外はずっと 母の足をさすっていた。

もうそれしか、私に出来ることはなかったからだ。

冷たい、氷のように冷たい 細くかよわく、骨と皮になってしまっている

母の足・・・。お別れの日が 近いのだと、静かに 受け入れるための儀式。

そして、夫が泊り込んだ 12月31日の 寒い午前三時近く。

ふと、夫が気配を感じて、眠りから覚めたとき、

母がおだやかな微笑を浮かべて、夫を見ていたという。

一瞬夫はおぼろげな寝起きの状態で、感じたらしい。

「お母さん、もしかして、正気になった?治ったんか?」

母は、うなずくような静かな表情で、じっと 夫を見つめたらしい。

そしてしばらくして、呼吸が止まり、静かな時間の後、

病室にドクター・ナースたちが 駆け込んできて、

母が息をひきとった瞬間を 看取ったのだ。

1999年 12月31日。2000年まで あと数時間という日。

美容師として、年末まで働いていた 母らしい最期の日。

62歳という若さで、

大事な大事な私達の 母は 逝ってしまった。




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